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新郷村の歴史

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戦国時代から明治時代

戦国時代の戸来村

三戸南部氏の支配下に入り、長亨年代(1487年~1489年)南部光政のころ、藤原鎌足の子孫の木村又六郎政秀が戸来(へらい)郷を領地として戸来家を名乗ったのが起こりとされます。

 

明治の戸来村

明治初年発行の「新撰陸奥(むつ)国誌」によれば、戸数は303あまりで馬の放牧飼育が盛んで、年に良馬140頭を産するほどの名馬の産地でした。

 

明治以降の戸来村

milk明治以降は、度重なる大凶作の経験から、肉牛の飼育が盛んになり、昭和10年には戸来村酪農農事実行組合が設立され乳牛を導入し、一時は青森県内有数の酪農村でした。
また、当村はリンゴの産地としても、木炭の産地としても(大正から昭和初期にかけて)名を馳せていました。

 

戦国時代の西越村

西越(さいこし)村も戸来村と同様、戦国時代から三戸南部の支配下に入り、居城ともいえる西越館には22代南部政康の四男の石亀紀伊守信房の次男(石亀義実と推定される)にあたる西越一族が居館していたと言われています。
西越氏は後の下田村(現下田町)に移り住み下田氏の祖先となったと伝わっていますが、領主説には別説もあります。

 

明治時代の西越村

西越村もまた名馬育成で知られ、薄からも重要視されていました。やはり薪炭の生産も盛んで、上掲の「陸奥国誌」によると戸数は178戸で、肥よくな土地柄ではないが、薪材が豊富で温泉も涌いており、湯治客でにぎわったとあります。

 

新郷村の誕生から現代

新郷村の誕生

yakuba明治4年の廃藩置県により、戸来村と西越村は「斗南県」のもとにおかれ、以後幾度かの統廃合を経て、明治22年4月の町村制施行で西越村が手倉橋村(現五戸町の一部)と合併して野沢村が誕生しました。
このとき、戸来村と野沢村にはそれぞれ村役場がおかれ、酪農を中心に農業と炭焼きを行うする産業が栄えました。そのあと、長い凶作と戦争の時代が続きます。

戦後の農地解放と新しい農政のもとで、村の経済力は大きく回復します。特に酪農は戦前を上回る勢いを見せました。
昭和30年7月、町村合併促進法により旧戸来村全域と旧野沢村西越区域が合併して新郷村が誕生します。翌31年に五戸町より一部地域を編入して現在の村の形になりました。

 

合併後の困難な時代

昭和31年の合併後の総面積は150.85平方キロメートルでしたが、そのほとんどが山林原野で農地は1割ほどしかありませんでした。
加えて、偏東風の影響を受けやすい土地柄であるために、合併後しばらくは産業の低迷や人口流出による村の過疎化が見られました。

 

新郷村の発展

しかし、昭和40年には八戸から五戸経由の十和田湖線のバスが開通し、昭和49年には十和田湖に隣接する迷ケ平高原が自然休養林に指定されたことで、十和田湖への東口玄関として観光面でも大きな飛躍を見せ始めます。
近年では「新郷村総合開発計画」に基づき地域経済の活発化を図り、主たる産業である農業では、従来の米・野菜・葉タバコの他にニンニク・ながいも・葉菜も取り入れた複合経営や酪農などによる地場産業の育成が行われています。
また、国道に昇格した454号を基盤とした観光開発には特に力を入れています。

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